ユーリがタニヤの姿を再び見たのは、物置の扉越しに言葉を交わしてから、二週間ほど経った頃だった。

 その日、昼に目を覚ましたユーリは、自分の食事も出来ないうちに、雑用を言いつけられた。 『夢滴楼』の裏手にある、崖っぷちに生えた松の木に海風から守られた、小さな畑。その畑で、今夜の料理に使う葱と檸檬をもぎる仕事だ。
 三十分ほどかけて籐の籠を葱とレモンでいっぱいにすると、ユーリは額の汗を拭いて立ち上がった。

 自分の両手を鼻の先に持っていくと、葱と檸檬の、良い香りがした。
 折られてからろくに添え木もしなかった為、醜く歪んでしまった指を見ていると、ロビタを思い出す。 彼の指も、やはりごつごつと節くれ立ち、醜く歪んでいた。おぞましい手だ、と思っていたのに、何故か今では懐かしい。

 ユーリは手を下に下ろし、辺りを見回した。

 秋の陽は麗らかに、蜜を薄めたような光を、畑に投げかけていた。盛りを過ぎて生気を失いつつある野菜の間で、赤や黒の蜻蛉が、 停止と前進を繰り返していた。松の間から見える海は、穏やかだった。

 時折、薄水色の空から、笛の音に似た鳶の声が聞こえてくる以外、辺りは静かだった。

 この時間で『夢滴楼』で起きているのは、ユーリたち下男しかいない。女たちは、五重塔の上で、束の間の夢を見ている。

 不思議なものだ、とユーリは思った。

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