石塔を飛び出し、驚いて退く少年たちの横をすり抜け、セムの横を、犬の横を抜け、そして牧場の外に向かって、走る。 少し離れた場所に立っていた眼鏡の少女―― 怯えた年上の少女に肩を掴まれている―― の横を走り抜けた時、 聞き取れるか取れないか程の小さな声が、耳をかすめる。

「ごめんなさい」

 しかし、顔を上げて彼女の表情を見る余裕など、なかった。否、見えるものなど、何もなかった。

 煌々と月が輝く夜空以外は。月に照らされて青く広がる草地以外は。後ろへ流れていく自分の息、無限に開けていく世界以外には、何も。

「行っちまえ!」

 犬の吠える声、羊と牛の合唱、家の明かりが点き、エッダの声が聞こえてくる。それらを超えて、セムの叫び声が、響く。

 レインは自分の吐く息に、笑い声が混じっているのに、気がついた。

 熱せられ運動する全身の筋肉が、背中でリズミカルに弾むリュックが、ぎゅっと握られた金属の左手と生身の右手が、 歓喜の唄を歌っている。最初、囁くようだったのが、次第に、声の限りに、世界を震わさんばかりに広がっていく。
 俺は、何処にでも行ける。こんな、あまりにも小さな人間の世界を飛び出しさえすれば、何処にでも、望みのままに!

 胸の中で、何かが吠えた。漆黒の瞳を持つ、三本足の獣が。その瞳は遥かな深い森を映し、その足取りは力強く、 地図無き荒野に向かって、駆け出した。

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