「そうか。子育ても親の面倒も、一人で看てるんだものね」

 電話の向こうから聞こえてきた溜め息には、同情と、そしてもしかしたら被害妄想かも知れないが、優越感が含まれているような気がした。

「残念だけど、今回の同窓会、ルツは欠席ね。是非また別の機会に参加して頂戴。それじゃあ、大変だろうけど頑張って」

 電話を切り、不意に疲労の溜まった眉間を揉んでいると、娘のマリサが背後から抱きついてきた。

「ねえお母さん、新しい上履き買ってよ」

「どうして? まだ履けるでしょ」

「だって、友達はみんな、新しい色つきの履いてるんだよ。白いの履いてるの私だけだよ」

背後を振り返らないまま、ルツは思わず声を大きくした。

「うちにはそんな余裕ありません!」

 背中の暖かな重みが消えた。数秒の沈黙の後、「お母さんの馬鹿!」と捨て台詞を残し、マリサは走り去っていった。

 ルツは両の肘を机についたまま、重い頭を巡らせた。机上には内職の事務仕事が、紙の束、鉛筆、消しゴムのカス、計算機となって散乱している。 正座していたはずの足はいつの間にか胡坐になり、側のカーペットには仕事中に零した麦茶の染みがあり、スカートは皺だらけになっている。 居間全体もいつの間にか荒れて、大きな天窓から差しこむ光の中で、埃が舞い散るのが見えた。

 ルツは鉛筆から手を離し、しばらく洗っていないクッションの上に、倒れ込んだ。
 どこからか祖父の鼻歌が聞こえてくる。頭の下敷きになった新聞から、インクの匂いが昇ってくる。

「どこか冒険にでも行っちゃおうかな」

 新聞の広告を見て、ルツは呟いた。月を舞台にしたSF小説の広告で、大きな満月の絵が付いている。 目を閉じて、ルツは月への冒険旅行を想像しようとした。 すると何故か浮かんできたのは、若い頃の白衣を着た自分、後に夫となる男と共に、研究に打ち込む姿だった。 あの頃は、まさか彼と結婚することになるとは、そして結婚して五年も経たないうちに彼が死んでしまうとは、 後に一人残されてこんな生活をすることになるとは、思いもしなかった。 あの頃は、ただひたすら新たな技術の開発に夢中だった。才能ある若い二人の共同作業は、とても楽しかった。

 目を開けると、邪魔なので机から下ろしていた夫の写真が、視界に飛びこんできた。大きな口を開けて溌剌と笑う夫の顔を、ルツはじっと見つめた。

「でも今も、毎日が冒険だわ」

 と、ルツは呟いた。

 不意に、新鮮な月面の空気を吸ったかのように、頭が冴え渡っていくのを感じた。

 今日はもう内職を終わらせて、地下室に籠もろう。試してみたい技法がある。思う存分試行錯誤してみよう。 その後夕食を食べながら、上履きの件についてマリサともう一度話してみよう。それからいつ大掃除をしようか? 父親を買い物に連れていこうか?

 まるで毎日、地図のない世界を突き進んでいるようだ。

 ルツは勢いよく起き上がると、夫の写真を机の上に戻した。負けないくらい大きく口を開けて笑い、立ち上がった。

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