どうして俺は、いつも、失ってから、大切なものに気づくのだろうか。

 ユーリの手は機械的に、鮭のムニエルに、マッシュルームとブロッコリーのバターソテーを添えていた。

 真っ白の皿に映える、朱色がかった桃色と、鮮やかな緑のコントラスト。芳醇なバターの香り。そして厨房全体に満ちる、 食欲を誘う匂いと、包丁がまな板にぶつかる音、弾けて飛んでくる油の熱さ。
 活気に満ちた厨房の中で、休む暇なく働きながらも、心はどこかに置き去りだった。何もない部屋で、ピンボケした映画を眺めているのと、 同じ気持ちだった。

「おい、例のオカマ野郎が来てるぞ」

 駆け込んできたウェイターが、伝票を見ながら声を張り上げる。

「雉と柿とトリュフ食いたいって言ってるんだが、あるか?」

「トリュフ食いたきゃ、高級レストランにでも行けよ! うちは売春宿なんだぞ! 女に用がねえなら来るなって、 言っとけ!」

 料理人たちの怒鳴り声も、他人事のように耳を抜けていく。少し前までは、ようやく、親しみを感じつつあったやり取りだったのに。

 今はもう、何も感じない。むしろ煩わしいだけだ。何もかも。
 ユーリはふと手を止め、厨房の隅で這いずり回る黒い虫を、ぼんやり見つめた。

 俺が、こんなところで働いてこられたのは、何度死にたいと思っても死なないでこられたのは、タニヤがいたからだった。 彼女が同じ建物の中にいると知っていたから、こんな、最低の場所でも、我慢出来た。

 彼女が心の支えだった。そんなことに、どうして、彼女がいなくなってから、気がつくのか。

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