タニヤはもういない。

 結局俺は、タニヤの手を取れなかった。

 タニヤは次の日、あの豚のような男に手を引かれて、行ってしまった。俺は厨房にいて、その姿を見送ることさえ出来なかった。

「おい小僧、ぼーっとしてんじゃねえぞ!」

 背後から頭をはたかれ、ユーリは極めて緩慢な動作で振り向いた。もうどうにでもなれという気分だった。働きが悪いと言って 殴られようが、最悪殺されようが、構わなかった。そんなユーリを、料理人たちは苛立ちの眼差しで見ていたが、 そこに一匙だけ混ざった同情が、使えない下働きを蹴り飛ばしたい衝動を抑えていた。

 料理人は、ぐいとユーリの前に、ワインと胡桃の乗った膳を差し出した。

「ウェイターが足りねえ。三階の牡丹の間に、これ持ってけ」

 ユーリは黙って前掛けを外すと、膳を受け取り、厨房を出た。

 廊下を歩く間、多くの客とすれ違う。もはや日常の一部と成り果てた、腕を組む男女の姿に、酒と香水の匂い。
 しかし今、この朱塗りの膳の上にナイフが乗っていたら、とユーリは空想のナイフを見つめた。俺はそれを手に取って、周りの奴らを刺す。 そして、自分の手首を切って、死ぬ。

 物騒な妄想は、従業員用の階段を上がり、上客用の個室が連なる三階に上がるまで、続いた。
 一階のけばけばしさとは一線を画し、 床と天井に、色々な濃さの木で美しい幾何学模様を描いた三階は、シンプルだが、瀟洒な雰囲気が漂っていた。人影は見えず、しんと静まり返っている。
 ユーリは廊下を歩いていき、全面に牡丹の花が彫られた分厚い木の扉の前に立つと、ノックした。

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