手が取り除かれ、イオキが目を開けた時、辺りには誰もいなかった。部屋は暗く、外からは相変わらず「鬼子を殺せ!」の 声が響いてきている。長く、これが永遠の眠りなのかと思うほど長く眠っていた気がしたが、実際には十分も経っていないようだった。

 イオキは自分の体を見下ろした。町の子供たちのお下がりである、襟の詰まったゆったりした芥子色の服は、血や汗ですっかり汚れ ていたが、しかしそこから伸びた、骨と皮ばかりの腕や足の傷は、治りつつあった。

 心なしか羽毛のように軽くなった体から息を吐き出し、イオキは胸の中で呟いた。

 ――大丈夫。僕は、まだ歩ける。

 ゆっくりと立ち上がったイオキは、部屋の中を歩いていき、やがて、立派な流木の置物と朱塗りの太鼓の間に、 屋根へ出る為の階段を見つけた。簡単な木の階段は、梁が複雑に交差する天井へ、急勾配に伸びている。イオキは階段の先を見上げ、 やや躊躇ったが、やがて決心し、一段目に足をかけようとした。

 その時、後ろで床が軋む音がした。

 イオキははっと振り返った。

 傷みきった体の中で唯一爛々と輝く緑の瞳が大きく見開かれ、長い睫毛の奥に、窓枠の中に身を屈めた 訪問者の姿が映る。

「あ……」

 そこにいたのは、人買いザネリだった。

 羽織ったコートはボロボロで、腹部に巻かれた布には血が滲んでいる。しかし、それ以外は記憶の中の姿と同じ。狡猾な狐を思わせる目、 白々しい笑みを浮かべた口元。

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