やあ、と彼が片手を挙げるのと同時に、イオキは身を翻した。 階段に四つん這いについた手のすぐ横に、 飛んできたナイフが刺さる。しかし、ザネリへの恐怖は、ナイフへの恐怖を上回った。
 イオキが立ち止まらないと見るや、ザネリは窓から室内へ飛び降り、大股にこちらへ向かってきた。

 人買い。人買いザネリ。
 必死に階段を上るイオキの脳裏に、イジドールの記憶が蘇る。
 僕を王の牢獄に繋ぎ、高値をつけて、売ろうとしていた男。僕のことを、グールとも人間とも思っていなかった。 誰に売るか、いくらで売れるか、そればかり考えて、僕のことを眺めていた。
 出会った時から感じていた、ザネリの瞳と微笑の奥にある、己に対する異様な執着。 それは、まるで暑苦しい毛布のように、何度はねのけてもイオキの上に覆いかぶさってくる。 きっと、今度捕まったら、二度と逃げられない。予感ではない。確信だ。

 イオキは振り向きもせず階段を上り、梁の間を抜け、屋根の上へと出た。
 遮る物のない夜空と七色に輝く町並みが現れるのと同時に、 冷たい夜気と「鬼子を殺せ!」の大合唱が体を打つ。しかし、それらに気を取られている余裕などなかった。屋根の頂に並べられた、 斜めの十字架の間を進み、一番端の蛇の像のところで、イオキは立ち止まった。

 精緻に彫りこまれた蛇の鱗に手をかけ、像の間から下を覗き込むと、本殿正面の空間は、まさに火の海だった。

「殺せ! 殺せ! 人喰いの鬼子を殺せ! 手足をもいで、蛇神様にくれてやれ!」

 世界の全てを奈落へ飲み込もうとするような、大合唱。

 イオキが声も出せないでいると、背後からザネリの声が聞こえた。

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