「おい少年、生きてるか」

 苔むした岩の陰で眠っていたレインは、耳慣れぬその声を聞くや否や、悪夢から目覚めたような表情で飛び起きた。

 人間の声を聞くのは、久しぶりだった。

 森に迷い込んでもう何日経つだろうか―― 或いは何週間、ひょっとしたら何ヶ月か? ――原始の海が誕生した頃まで遡れそうな ほど長い時間を、過ごしたような気がする。

 大樹が石のような樹皮を捩じらせ、氷のように冷たい空気が苔を湿らせる、原生林。その中で、痩せて一回り小さくなったように見えるレインは、 すっかり汚れていた。
 服は辛うじて着ているが、リュックと靴はとうに失くし、皮膚からは獣のような臭いが漂ってきている。瞳だけが相変わらず、 光を飲み込むような、人間とも獣ともつかぬ漆黒で、その瞳が、目の前に立ちはだかった人間を見上げた。

 周囲の木々よりも巨大に感じたが、実際には中背中肉の体に分厚い中綿のジャケットを羽織り、登山用リュックを背負った、中年の男だった。 肉食獣を思わせる無骨な顔立ちに、無精髭。しかしその瞳はナイフのように鋭く、どこか理知的な印象でもある。

「こんなところに、人間がいるとはな」

男が喋ると、息が白い霧のように漏れた。深く低い声は、敵意があるようではなかった。

 にも関わらず、レインは逃げ出そうとした。痩せ細った足首でバネのように岩陰から飛び出し、男から一目散に離れようとした。
 が、

「ぎゃっ!」

 苔に足を滑らせ、レインはあえなく転倒した。

--------------------------------------------------
[784]



/ / top
inserted by FC2 system