すると、立ち去りかけていた若い女が、まなじり上げて振り向いた。

「おいオッサン。そのオバサンの言う通り、さっさと家に帰った方がいいぜ。軍や警察だって全能じゃないんだ。 自分と家族の身を守る選択肢くらい、用意しておきな」

 無礼な物言いに男は目を剥くが、女の凄味はそれ以上で、彼が言い返す間も与えず音楽教室へ戻ってしまった。

 女の捨て台詞を聞いたルツは、急に不安になり、そっとその場を離れた。

 女の言葉は何故か、何かの予言のように思われた。予言―― 何の予言だ?  明日には何事もなかったかのような生活に戻れるだろう、と言う楽観が、打ち砕かれる予言?  更に悪いことが起きる予言? もう二度と平和な日常は戻ってこない、と言う予言?

「お母さん」

 と、マリサが手を引っ張った。

「苦しい」

 ルツはマリサを見下ろした。マリサの顔色が、どす黒くなっていた。額に脂汗が浮いている。

 戦慄を覚えながら、ルツはマリサの額に手を当て、すぐに抱き上げた。風邪の初期症状だとか、人いきれに酔ったとか、 そういうものではない、と直感的に思った。

 腕の中で、マリサが小さく咳をした。
 ほんの一滴、鮮血が、唇から垂れた。

 ルツは走り出した。

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