静寂を数分ほど反芻した後、汗になった焦りを唇の上に滲ませ、ユタが振り向いた。

「今のは…… このままでは、イオキ様が……!」

しかし、冷静な表情でトーベは言った。

「人間にグールが殺せるものか。お前も見ただろう。イジドールで鎖を引き千切った、あの力を」

 そう言いつつも、松明に照らされ男たちの顔に揺らめいていた歪み、そして、町全体を覆いつつあるただならぬ雰囲気は、 異形をも殺しかねない。オルム晶石の清純な輝きですら禍々しく変えていく、 逆巻く泥濘に似た、不気味な圧力。それはトーベを捕らえ、先に立つユタの背中を、追わせようとする。

 トーベは、あと一呼吸で崖から降りんばかりだった体勢から、立ち上がりかけた。

 背中はほとんど崖の縁の上にあり、 膝をついた右足の爪先は、縁から空中に飛び出していた。顔は墓場の方へ向き、意識は前方に集中していた。


 不意に、その、固いブーツに包まれた右足首を、下から誰かが掴んだ。


 あっという間の出来事だった。
 そのまま強い力で後ろへ引っ張られたトーベは、立ち上がりかけた姿勢からバランスを崩し、背中から倒れていった。

 振り向いたユタの表情は、一瞬で、崖の縁の向こうへ消える。
 そして、トーベは、見た。自分の足を掴み、崖から引き摺り下ろした男の顔を。

 岩壁にへばりつき、勝ち誇った表情でこちらを見下ろす、狐目の男を。

 人買いザネリの悪魔のようなニヤニヤ笑いが、ユタの絶叫が、落下していく体を包む。

 馬鹿な、と、己の身に起きた状況を理解する暇もなかった。
 遥か暗闇に飲み込まれ、シナイ山の崖から数十メートル落下したトーベは、その先にあった巨大な岩石に叩きつけられ、放射線状に血と脳漿を撒き散らし、 絶命した。

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