ほんの数週間前、あれほど死の衝動に突き動かされたにも関わらず、こうして生きている不思議。 地獄のような日々に、少しずつ安らぎを見出している不思議。故郷ではあんなに嫌った静寂と穏健を、愛しているという不思議。

 人間は変わっていく。清らかなせせらぎに生まれ、険しい岩場で逆巻き、土が汚れれば濁る、川の水のように。

 俺もそうやって、どんどん堕落した場所に相応しい人間になっていくのだろうか。

 ふと人の気配を感じ、ユーリは振り向いた。
 畑の隣、火のような形の花が群れ咲く向こうに、タニヤが立っていた。
 ユーリは少し驚いたが、その一方で、陽炎が見せる幻を見たような、ひどく静かな気持ちで、彼女を見つめた。 タニヤも黙って、じっとこちらを見つめた。

 タニヤは海辺で彼を助けた時と同じ、裾がボロボロになったキュロットに、薄汚れたTシャツを着ていた。相変わらず前髪を長く 額に垂らし、髪も肌もくすんで、全体的に灰色がかって見えた。
 皮膚を覆う傷が、それらを余計際立たせた。手首の縄目が、足の蚯蚓腫れが、首のどす黒い絞め跡が。

 やがてタニヤは何も言わず、踵を返そうとした。ユーリは思わず彼女を追いかけようとして、赤い花が群れ咲く中へ入った。

「待って」

 タニヤは立ち止まった。

 呼び止めたものの、後に続ける言葉が見つからず、ユーリは途方に暮れた。
 タニヤはこちらに半分顔を向け、目を伏せてしばらく黙っていたが、やがて呟いた。

「その花の中に立ってると、死んじゃうよ」

--------------------------------------------------
[554]



/ / top
inserted by FC2 system