ユーリの声は、水面にぽつりと落ちた一枚の枯れ葉のように、スーラの笑い声を音も無く裂いた。

 静かに波紋が広がっていく。左手の傷口から滴る血を伝って、部屋の中に、己の胸の内の中に。
 その様子を見つめながら、ユーリは続けた。

「俺は最低だ。タニヤのことを助けようしたのに、土壇場になって怖くなって、差し出した手を、引っ込めた」

 夜明け前の空の中で、タニヤと交わした言葉。朝焼けの光の中で見た、彼女の額に彫られた言葉。
 それらは、昼も夜も激しくユーリを苛み、薔薇の蔓のように締め続けている。

 タニヤを助けたいと言う気持ちに、偽りはなかった。 けれど、もし彼女が、俺のことを好きだと言っていたら? 俺に王子様を求めて、助けたのだと言っていたら?
 俺の気持ちはその時点で、崩れ去っていただろう。
 タニヤが好きだから、可哀想だから、助けてあげたかった。けれど同時に、彼女の体を覆う傷に、怯えてもいた。 彼女を地獄の縁から引っ張り上げることは出来る。けれどその先、あの傷を背負って歩いていくなんて、そこまでは出来ない、と。 そんな、身勝手な、無責任な気持ちだったのだ。

 そして、彼女のあの額の文字を見た瞬間、俺は逃げた。自分がしようとしていることの、あまりの責任の重さに、気がついて。 タニヤが勇気を振り絞って曝け出してくれたものから、目を背けて。

「彼女に許してもらえるなんて、思ってない」

 差し伸べた手を引っ込められた時の、彼女の絶望は、どれ程のものだっただろう。
 きっとその痛みは、こんな左手の痛みなどとは、比べ物にならない。

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