早過ぎる春一番のように、彼女は去っていった。

 テクラは彼女が居た場所を見つめたまま、しばらく、身じろぎしなかった。

「……僕だって、そうなれば良いと、心から願っていますけど」

 ようやくそう呟くと、テクラは虚空に向かい、微笑を浮かべた。

 毛布の下で両の拳を握り、何とか作り出した、微笑だった。
 だが同時に、その拳は、体に力を与えた。

 テクラが毛布を跳ね除けると、その下のシーツは、点滴から漏れる液体ですっかり湿っていた。

 テクラは静かに床に下りると、ベッドの下に隠してあった紙袋を引っ張り出した。そして、囲いのカーテンから頭を出し、部屋の様子を窺った。 入院患者がいるのかも定かではない他のベッドのカーテンは、全て固く閉じられ、そよとも動かない。 そのことを確認すると、薄い入院着一枚のまま、サンダルも履かず、一歩踏み出した。

 猫のように、彼は物音一つ立てなかった。患者や看護師がたむろする廊下も、一瞬の隙を突き、誰にも見られぬまま横切る。 その動きは若干ぎこちないが、流石諜報部と感心させるには充分だ。リハビリ中に何度もシミュレーションした道のりをなぞり、 目的地である男子トイレに辿り着くまで、一分もかからなかった。

「うう…… でもやっぱり、結構痛いなあ」

 清潔だが、汚物と漂白剤の臭いがごった煮になった男子トイレの個室に入ると、テクラは壁に凭れ、ため息をついた。

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